カタヨリ紙

終電前のブンガク雑談サイト 

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『よいみみのこうま』 佐々木たづ

ロバータさあ歩きましょう (偕成社文庫 4029)もう はるは そこまで きて いるというのに、くもった そらから、まだ ときおり ゆきが ちらちらと まいおりて きました。
でも どうぶつの こどもたちは、そのはいいろの そらの したで、げんきいっぱい あそんで いました。
「かくれんぼ する もの
この ゆび とまれ、
かくれんぼ する もの
この ゆび とまれ。」
まもなく そこへ、一ぴきの くりげの こうまが やって きました。けれども、さっきの こどもたちの すがたは、もう みえませんでした。
この こうまは、いつも みんなと なかよく あそんで いました。
でも、うまれつき みみの きこえない この うまのこは、みんなが さそいに きた ことに きがつかないで、ときどき おいてきぼりを くいました。
こうまは、あちらこちら かけまわって さがしましたが、みんなの すがたは みあたりません。
そこで こうまは、その ひ 一にち、ひとりで げんきよく あそびました。
『よいみみのこうま』 佐々木 たづ(2頁~)

耳の聴こえない子馬が仲間たちにバカにされる。
けれども心やさしく接して最後には子馬の良さを分かってもらえるというお話。

ここまで行く間に、神様が創ったという“しるし”のくだりが出てくる。
水仙のお花の真ん中のところが黄色いね、お茶碗みたいだね、とリスが言うと、なぜこんなふうになっているのかと、みんなで考え始めるのだ。すると小熊がこんなことを言う。「これはねえ、かみさまが つくったって いう しるしだよ。おかあさんが そう いってた。(7頁)」と。その言葉に促されて、自分のどの部分が神様に創られた“しるし”なのか、みんなで言い始めるのだ。小熊は自分の首の毛の渦巻きを見せて、これが神様に創られた“しるし”なのだと言うし、小鹿は背中の茶色い毛のなかにある、白い模様がそれだと言うし、小鳥はくちばしの赤いところだと話す。みんな口々に、神様に創られた“しるし”がここにあり、自分は神様に創られたものだと主張するわけだ。それを子馬は静かに見ている。からかいたい子狐は、子馬の体をくまなく調べ上げ、「ないねえ。(11頁)」、と言うのだった。

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『プーテルとぼく』 大嶽洋子

プーテルがやってきたのは、ぼくの四さいのたんじょう日の朝だった。(略)ぼくは、こっそりとなりのへやをのぞいてみた。そしたらどうだ。ごはんを食べるときのぼくのいすにすわって、テーブルにひじをついて、くまがいたんだ。ぼくは、おおいそぎでそばへいってのぞきこむと、小さな声で、
「あれっ、きみ、ママのいってたくま?」
といった。どうしてかっていうとね、このあいだ、ママが、
「こんどのたんじょう日にね、れいちゃんのところにくまがくるって、ハガキがとどいたわ」
って話してくれたからなんだ。
「うん。ぼかぁ、プーテル。青葉山からきたんスよ」(8頁)

「れいちゃん」の4歳の誕生日に、熊の子「プーテル」が唐突にやって来る。その理由は語られておらず、ただ「ハガキが届いた」とだけ説明されている。この物語の出だしから想像するに、きっと結末はプーテルが山に帰ってしまう場面ではないのかとあたりをつけて読みすすめていったが(76頁もある長い話です)なんと最後までプーテルは説明もせず山に帰ることもなく、「れいちゃん」との暮らしのなかに溶け込み馴染んだままで、終わってしまった。
そこがとても良いと思った。
教育的配慮か感動を誘い込もうと目論むのか必要以上に物語を捻じ曲げようとしないところが良いと思う。念のため、急いでもう一言付け加えると、動物を擬人化させることに対して云々する意見をよく耳にするけれど、そうではなくて、物語を介してプーテルを愛するところから、プーテルのふるさと青葉山を(仙台の青葉山?)愛する気持ちへと繋げてゆける。れいちゃんとの暮らしを魅力的に描くただそれだけで、物語を捻じ曲げることなく(必要ならば)同時に教育的配慮もなされていることになる。物語は物語に徹してこそ読者を次のアクションへと導いてゆけるのだと思う。

『ムニュ』 みやざきひろかず

ムニュムニュって しってる?
どんな いろにも
どんな かたちにも すがたを かえる
ふしぎな いきもの


子どもたちに大人気の絵本。やさしい絵とみじかい言葉でムニュの魅力を伝えている。おそらく対象年齢は幼稚園児ほどだろうが、私のような、むやみに深読みする大人まで楽しめると思う。ムニュは自由だ。なんの制約もない。縛りから解放された気ままな魂だ。子どもたちは絵本を読んでもらいながら解放されてゆく。どんな形にも姿を変えることができるムニュが、つぎはどんな形で現れてくれるのかという好奇心を子どもたちから引き出している。そしてなによりも、ムニュの柔らかい姿が子どもたち自身の肌そのもののように、ムニュとすり替わることができるのである。

ムニュって何だろうと考えてみた。よく読むと、視線が2種類あることに気づく。自分から何かになろうとして形を変えてゆく視線と、何かになったあとに、だれかに別のものと誤解されたり決めつけられたりしている視線と。

『ペンタとぼく』 長谷川摂子

あさは いつ くると おもう?
かおが ぬれているときは まだ。
タオルで ぐるんと ふいたとき、
あさは かぜと いっしょに
「あさー」っていって とんでくるんだ。(5p)

『すずの兵隊さん』 アンデルセン

すずの兵隊さんすずの兵隊さん
ハンス・クリスチャン アンデルセン

もう、止められません。水のながれが、紙の船を運河へとつきおとしました。それでも兵隊さんは、気をつけのしせいのまま、いっしゅんも、おじけづいたりはしませんでした。

おそれるな、兵士よ、けっして。
たとえ 死が せまっていようとも。

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