カタヨリ紙

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『懶惰の歌留多』 太宰治

怠惰ほど、いろいろ言い抜けのできる悪徳も、少い。(略)
苦しさだの、高邁(こうまい)だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。書け。落語(らくご)でも、一口噺(ひとくちばなし)でもいい。書かないのは、例外なく怠惰である。
新樹の言葉『懶惰の歌留多』太宰治/新潮文庫14頁~

しょっぱなから耳の痛い引用となった、笑。
青空文庫でも読めるので、お時間のある方はどうぞ。

太宰と言えば、人間失格、斜陽、富嶽百景、走れメロスが有名だ。
他に、桜桃、女生徒、津軽、トカトントン、川端康成へ、なども取り上げてもらえる機会が多いと思う。
むしゃぶり付くようにして読み継いでいけば、はたして太宰治という作家はどのような書き手だったのか、ふり返り、目眩がする。代表作だけ読めば、もっと簡単に言えるのだろうけれど…。


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『つぎの著者につづく』 円城塔

文学界 2007年 11月号文学界(11月号)に掲載された円城塔さんの『つぎの著者につづく』
はじめに小説内から文章を抜き出して書くのがカタヨリ紙的で、それは書かれたものに出来るかぎり寄り添い私なりに感想文を書きたいからで。いってみればオバチャンこんなふうに理解したよと“理解”をもとに書いているわけで。ところが今回はそれが出来そうにもない。いきなり白状するけれど、私には分からなかった(笑)。“理解”の意味が違うらしい、なにより、読むまえの知識が必要らしい。つぎの著者につづく、ならぬ、(博識な)つぎの読者につづく。

と、ここで終えてしまうわけにもいかないので私なりに感じたことを書くけれど、あまり真面目に読まないでネ。

目次には「驚異の博覧強記か世紀の大法螺か、言葉の原始に迫る新鋭の力作」と書かれていた。
言葉の原始に迫っているのかどうなのか…、それは分からない。ただ過去の遺産をパッチワークして螺旋状に繋いでいけば、それで原始に迫ったことになる、とは言えないだろ。少なくとも原始であれ何であれ、迫って行くための糸口、方法が必要となるわけで、この短い数十枚(?)の長さの小説内で大きなことをやろうとすれば、どうしたって言葉は凝縮されていくし、場合によっては真空状態にして言葉を転がしていく、その転がす音すらも消す必要があるのかもしれない。

第137回芥川賞受賞作 『アサッテの人』 諏訪哲史

アサッテの人私に残された選択は、破綻を覚悟で苦肉策を押し通すか、悪足掻きは止して潔く筆を折るかの二つに一つということになる。だが正直なところ、ここに及んでなお前者を主張するほどの頑強さはもはや私にはない。といって、このままアサッテの話を断念し、おとなしく稿を眠らせておくのも業腹だ。(略)
…あらためて手元を見渡してみたものの、今までの試行錯誤が物語るように、これらバラバラな素材は、小説という単一の視点から編み直されることを、頑として受け入れない。無理にそれを強いるなら、全体は矛盾だらけの出鱈目な代物に堕するだろう。
いま、私はこれらの難題にほとほと倦み疲れた。そして思いあぐねた末、一度すべてを放擲(ほうてき)し、はなから並べなおすことに決めた。つまり、草稿は草稿、日記は日記として、小説以前の敲(たた)き台のような体裁のまま読者の前に投げ出すというやり方である。普通なら、こうした狼藉は作品として許されるものではない。いや、そんなことより、この場合もっとも厄介な点は、草稿と日記とをコラージュすることでなる小説『アサッテの人』とは、それ自体、果たして完成品なのか、草稿なのか、という問題なのである。もとより、いまの私に申し開きの術などない。順を追って並べ直し、そこに出来上がったものが自ずから完成品である。(11頁~)


よくぞこの小説に『群像』は新人文学賞を与え、それどころか芥川賞まで受賞させてくれたものだと、私は読んでみて驚いた。まだまだ文学も捨てたもンじゃないと思った。作者・諏訪哲史さんとはアカの他人で、もちろん何の義理も借りもないけれど、選考してくれた人々に感謝したい気持ちにさえなった。この小説は、芥川賞どころか、もっとずっと下の第一選考で落とされる可能性が高いと思う。それを諏訪さんはよく分かっていて、最初の段階でこういう文章が出てくる。


芥川賞『アサッテの人』は、もう読みましたか?

私はまだです。

前回の受賞作は、オジサン読者が、若い女のコの私生活を覗いて癒される小説となっていましたが、今回はどうでしょうか。
新聞記事より抜き出し↓

受賞作「アサッテの人」は「ポンパ」「タポンテュー」など無意味な言葉を時折発し、やがて失踪した叔父について「私」が回想する作品。叔父の日記や「私」の小説の草稿、全体をふかんする文章などで構成され、叔父が言葉につまずくことで世界との関係がねじれていくさまが描かれる。
「昨年亡くなった父の口癖が『ポンパ』で僕もうつってしまったのですが、これは何なのかと考えた。僕自身を分裂させて叔父と語り手にした。内面を掘り下げました」
言葉へのこだわりが強いのは「吃音で苦しんだから」と話す。「言葉への羨望と憎悪がある。でも生きるということは言葉と付き合うこと。毒があると分かっていても使っていかざるを得ない」
高校のころ独文学者種村季弘さんの本に出合い「奥深い世界観、硬質な文体」に心酔。国学院大に進み師事した。大学時代には「あらゆる本を読んだ」。卒業して詩を書いていたが、二十八歳で会社を辞め、二年を費やし「アサッテの人」を仕上げた。
文学賞に応募したが落選。父の看病や再就職した会社勤めと両立させながら失意の日々を送ったが、昨年、同作を手直しして再び応募、デビューを果たした。
「小説はルール無用、固定観念から自由になれる。読者を裏切り続けたい」

いや、これは、感動してしまった…。
『アサッテの人』、おもしろいかもしれない。
それに、私も吃音だし、笑。
さっそく探して読んでみよう。

受賞作について、興味深い記事を書かれているサイト様

(最近、管理人は上機嫌だ。『オブ・サ・ベースボール』も良かったし、『アサッテの人』も期待できる。映画とドラマも良いのに当たってる。嬉しい。)

『小説家』 勝目梓

『小説家』 勝目梓命が絶える日が目前に迫ってきても、彼の頭の中にあるのは息をしている現在ただいまのことだけで、過ぎた昨日のことも、くるかこないかわからない明日のこともおそらくは考えようとしないだろう。彼はそういう男なのだった。(423頁)

勝目梓さんの『小説家』はこの言葉で締め括られている。エッセイではない、小説である。「半生を振り返る初の自伝的小説」と紹介されていた。「彼はそういう男なのだった。」とこの一行を書きたいがために『小説家』は書かれたかのようだ。“そういう男”だったとしか言いようがないのである。“そういう男”を小説としてそのままに書くことでしか表現できない小説なのである。

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