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『プーテルとぼく』 大嶽洋子

プーテルがやってきたのは、ぼくの四さいのたんじょう日の朝だった。(略)ぼくは、こっそりとなりのへやをのぞいてみた。そしたらどうだ。ごはんを食べるときのぼくのいすにすわって、テーブルにひじをついて、くまがいたんだ。ぼくは、おおいそぎでそばへいってのぞきこむと、小さな声で、
「あれっ、きみ、ママのいってたくま?」
といった。どうしてかっていうとね、このあいだ、ママが、
「こんどのたんじょう日にね、れいちゃんのところにくまがくるって、ハガキがとどいたわ」
って話してくれたからなんだ。
「うん。ぼかぁ、プーテル。青葉山からきたんスよ」(8頁)

「れいちゃん」の4歳の誕生日に、熊の子「プーテル」が唐突にやって来る。その理由は語られておらず、ただ「ハガキが届いた」とだけ説明されている。この物語の出だしから想像するに、きっと結末はプーテルが山に帰ってしまう場面ではないのかとあたりをつけて読みすすめていったが(76頁もある長い話です)なんと最後までプーテルは説明もせず山に帰ることもなく、「れいちゃん」との暮らしのなかに溶け込み馴染んだままで、終わってしまった。
そこがとても良いと思った。
教育的配慮か感動を誘い込もうと目論むのか必要以上に物語を捻じ曲げようとしないところが良いと思う。念のため、急いでもう一言付け加えると、動物を擬人化させることに対して云々する意見をよく耳にするけれど、そうではなくて、物語を介してプーテルを愛するところから、プーテルのふるさと青葉山を(仙台の青葉山?)愛する気持ちへと繋げてゆける。れいちゃんとの暮らしを魅力的に描くただそれだけで、物語を捻じ曲げることなく(必要ならば)同時に教育的配慮もなされていることになる。物語は物語に徹してこそ読者を次のアクションへと導いてゆけるのだと思う。

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