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太宰治の死と文学~マニア発

太宰は、いちばん好きな作家です。
ここから、いろいろな作家へと読み進んでいきました。
いまはほとんど帰ることのない私の故郷です。


太宰のよいところを上手に言うのはムズカシイですね。
恥、道化、役者、気高さ、素朴、正直、etc...単語でしか言えません。
ただ「誤解されてるなぁ…」と思うことは、多いです(笑)
たとえば、昔の友人のピアニスト、この方のご実家には本がたくさん置いてあって、学生の頃に、ふと手にした太宰の本、ページをめくっていくうちに、読みふけってしまったのだそうです。その姿を見て、お父さまは、カンカンに怒ってしまい、取り上げてしまった。こんな本、読むんじゃない。おまえは死にたいのかっ! と言って。しかし、大人になって、このことを思い出した友人は、それなら、そんな本、家に置いとくなよ! とまったくその通りのことを、言っていました。自分ではコッソリ読むけれど、自分の子どもには読んでほしくない。これはいったいどういうことなんでしょう…!? 太宰を読むと死ぬ、というのは迷信(?)です。


この友人は、ピアニストなので、私には、さっぱり分からないクラシックの話をよくしてくれていましたが、その話の流れで、音楽や絵画の世界には、自殺者はあまり見受けられないが、どうして文学には自殺者がこんなに多いのだろうかと、言っていましたね。そう言われてみれば…、どうして多いのかな? 私には、答えられなかったです。なんとなく、分かるような気もするのだけれど、違うかもしれない。これはまったくありえない話ですが、もし太宰が、文学ではなく、音楽のほうで才能を発揮していたとすれば、それでも、死を選んでいたであろうか…? この問いの意味は、太宰という人間の弱さが死へ向かわせたと考えるよりも、文学という装置があと一押し、背中を押してしまったのではないのだろうか、ということなのです。私は、彼は、死ななかった、と思いますね。音楽や絵画が向かっていく、その向かい方と、文学の向かい方の違いで、彼は、つかみ損ねることなく満足し、天命をまっとうしたと思います。音楽と絵画は、つかみ損ねることがないと思う。微細なもの、目に見えないもの、すべてを掬い上げることができる。けれども文学は言葉という厄介なものを媒介にしているから、自動的につかみ損ねてしまう。たとえば、「明るい」と書けば、その反対の「暗い」を捨てることになる。「暗いが明るい」という文章は成り立たない。言葉はつねに限定していく。同時に限定されなかったものは否定されてゆく。だが現実というヤツは、こうして目の前に見える雰囲気、情景は、かならず相反する意味同士を抱えているのだ、と思うのですよね。音楽や絵画にはコレができるのじゃないのかな。相反する意味同士をいっしょに掬い上げることができるのじゃないか…? だとすれば、音楽や絵画の到達点として、満足する、という月並みだけれども人間の営みとしては重要な欲求が満たされてゆく可能性が大いに有るのに対して、文学の到達点には満足というものがなく、かならずやつかみ損ねてしまった(否定された)意味合いたちの亡霊に悩まされ、追いかけられることになる。書いても、書いても、満たされない、何か。その何かのために書きつづけるのだろうが、その何かがあまりにも深く、また病み、ほとんど死と同義語であるならば、満たされぬままに死の方向へと向かっていくしかないと、私は、妄想しました。


キャメルの煙草を持って三鷹の禅林寺へ行き、山崎富栄の日記本も古本屋でみつけて読みふける。御坂峠天下茶屋に斜陽館。そのノートに書き記された来訪者の方々の、太宰への特別な想い、心の叫び、ちっちゃな字が、たくさん並んでいるのを見、私もペンを手にしたが、なにも書けず。見知らぬ誰かの文字を眺めているだけで、それでいいと思う、太宰本人には会えないが、それだけで来た甲斐があったと思う。それから、もうひとり、太田治子。『心映えの記』、マニアなら、ぜひ読んでおきたいところです(笑)


太宰Tシャツ 金木町の新座敷から~太宰屋
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