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異年齢・異学年交流推進事業(文部科学省)について

轟音をたて、目のまえを走る、貨物列車。
それを小さな子どもたちは、どんなふうに理解してゆくのだろうか。
すぐに絵を描かせてみると、混乱しているさまが、窺がえる。画用紙に、長四角を書いて、それより小さめな四角をいくつか書き込み、はい、これが窓です、これが車輪です、車体の色は赤で黒い線が1本入っていました、というような、クリーンなまでに整理整頓された貨物列車を、じっさいに見た子どもたちは、誰ひとりとして描かないだろう。ゆがみ、そり返り、あるいは伸ばした線を、どこと繋げたらよいのか分からずに、中途で途切れ、いま見た記憶、残像を、必死に追いかけるが捉えきれず。しぜん、色も複雑になってゆき、どう塗りたくっても違うというような表情。出来上がった絵は、ピカソよりもピカソかもしれない。なにを描いたのか、凡人の私には、判別できなかったりもするが(笑)


けれども、それが「見る」ということなのかもしれない。
すべては捉えきれなくても、少なくとも、「見る」という態度には違いない。貨物列車が走ってゆくのを見て、働きものだね、力持ちだね、などと、うわっつらの良い面だけを見て、見たつもりになっているよりは、子どもたちのほうが、よっぽど「見る」態度が出来ていると、反省する。乱暴で荒々しい感じや、それにともなう恐怖――体全体で受け止めようとすれば、良い面ばかりではなく、かならずや反対の、悪いイメージもワンセットで受け入れざるを得ない。その両方に体を浸すことが、「経験する」という態度なのだろう。


そんなことを考えていた、週末。
さっき、ヤフーのニュースをチェックしていたら、文部科学省が来年度から、「異年齢・異学年交流推進事業」(時事通信より)とやらを、始めるらしいことを知った。内容は、子どもが少ないから、社会性が育ちにくいので、ちっちゃいのも大きいのもごちゃ混ぜにして合宿したり、その合宿先から学校へと通ったり、するらしい(←説明、たどたどしい?・笑)そのニュースから、関連リンクを2、3訪問。文部科学省のページでは、『子どもの居場所づくり新プラン』などというものもあった。その他の関連リンク先も論調はみな同じで、昔は子どもがたくさんいた、ごちゃ混ぜのなかで私たちは社会性を身につけてきた、凶悪事件が多発する昨今、今の子どもたちだって、昔の子どもたちのように、ごちゃ混ぜにすれば、なんとかなる(?)それで具体的には地域と学校と家庭ぐるみで、ごちゃ混ぜの子どもたちを育んでゆく、ということらしいのだが…。


昔のような、ごちゃ混ぜの状態を、人工的に、こしらえて。
しかも、それを地域、学校、家庭が先導する、ということは、つまり、おもいっきり監視された内での「社会性」なワケで、いってみれば街中に監視カメラがぶら下がっているようなもの。
外では年下の子を可愛がるが、家では弟妹を蹴りたおすことも、現実にはじゅうぶんに考えられる。外での交流は、イベントなのである。ルールもプログラムもあらかじめ用意されているのだから。カタチは似せても昔のようにはならないだろう。そういうイベントを考えついた大人たちの、自己満足の、すえた臭いがただよってくる。


子どもが少ないから兄弟がいないから、ごちゃ混ぜのなかで育っていないからetc…、昨今の凶悪事件の原因は、そういうところに、あるのだろうか?
社会性とは経験に支えられている、と妄想する。
体全部で受け止めた、まっすぐな線がひとつもない、なにが描かれているのか分かりにくい、そんな子どもたちの精一杯な貨物列車の絵のように、ルールもプログラムもない危なっかしい時間の積みかさねのなかでしか、それは実現しないだろうと、さらに私は妄想するのだが…。むしろ、逆に、子どもたちを、放っておいたらどうなのか? いや、それがなにしろ、いちばんムズカシイのだが。


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