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保坂和志 『小説の自由』

※「3 視線の運動」から引用。


イアン・ロバートソン著『マインズ・アイ』(茂木健一郎監訳)という本にこういうことが書かれている。まずは、次に書いた文章を黙読して、それに要する時間を計ってみる。

(1)先頭を行く牛が落としたばかりの、まだ湯気が立っている糞に肢(あし)を取られながら、乳房を重たい鐘のように揺らして牛の群が歩いていた。牛の息が静かな霜の降りた空気に立ちのぼり、昇る朝日のりんとした輪郭をかすませた。最後の牛が、肢の間に突進してきた茶色のねずみを蹴り上げた。


(2)比較的やせた高地の方が、牧羊は盛んだった。だが、牧羊の収益は徐々に薄くなり、牧草地も次第に野生の状態に戻りつつあった。隣町からやって来る訪問客は喜んだが、牧羊で生計をたてる農家にしてみれば、これは悲劇的以外の何ものでもなかった。


この二つの文章を読むのに、イメージで考えるタイプの人は(1)を読む方に時間がかかり、言葉で考えるタイプの人は、同じか(1)の方がやや早く読める。また、イメージで考える人の場合、言葉で考える人と比べて文章を読むのに、二~三割余計に時間がかかる。――というのだ。
この、「イメージで考える」「言葉で考える」という二分法は乱暴ではあるけれど、文章という文字だけで書かれたものを読むときに、映像かそれに類するものを自分で出力させながら読む傾向のある人とそうでない人という風に考えると、チェーホフ『子どもたち』と三島・志賀の文章の違いがわかりやすくなると思う。
ここで注意してほしいことは、読みながら映像やイメージを出力させるタイプの人は、情景描写を読むときに余計に時間がかかるということだ。私が強調したいのは、つまり、映像やイメージをあまり出力させないタイプの人は、情景描写を読むときに、不馴れな映像を出力させなければならないから時間が余計にかかってしまうのではなく、「不馴れなものは出力させない(※点々つき)」――そんな手間はいちいちかけない――ということだ。
そこで「いい文章」という規範を考えてみるとどうなるか。「いい文章」とは、(1)イメージ寄りの読者にとっては、情景描写の箇所になっても、他のところとだいたい同じ速度でひっかかりなく読める文章ということで、(2)言葉寄りの読者にとっては、情景をいちいち映像として出力させなくても困らない文章ということになる。
(略)…文字で書かれる文章というのは順次的・直列的であって、物理的な外見からいったら、『暗夜行路(※志賀)』と『子どもたち(※チェーホフ)』には――ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』と水墨による山水画のようには――違いはないのにもかかわらず、読むときの印象はまるっきり違っている。大げさな言い方をすると、『子どもたち』では、書かれた文字を起点にして、こちらの注意が四方八方に飛び散るような気がする。
私はここに小説という表現の真骨頂があると思う。小説とはまず、作者や主人公の意見を開陳することではなく、視線の運動、感覚の運動を文字によって作り出すことなのだ。作者の意見・思想・感慨の類はどうなるのかといえば、その運動の中にある。(53p~)




まだ読んでいる途中ですが(ゾラが優先♪)面白かったので、抜き出してみました。
今の時代は作家志望の方が大勢いらっしゃるようで、本離れが騒がれている、その一方では、「小説の書き方」系の本が山と積まれ、叩き売られています。保坂さんの本もその類いなのかと半ば諦めつつ、ページをめくって行きましたら、やはり芥川賞作家、面白いです、「おおおっ」とか、「ぷぷっ」とか、ふきだしたりニヤニヤしたりと、「なるほど…」と勉強になりながらも、大きくうなずける箇所がいくつもありました。抜き出した箇所もそのうちのひとつです。「小説の書き方」系の本には、たいてい同じようなことが書かれているでしょう? センテンスを短くとか、修飾語をできるだけ使わないとか、甚だしいのになると、大人向けの小説に関しての注意事項として、大人は忙しいから想像力を補ってやれるような書き方が望ましいとか平気で書いてあります(笑)これがバカ売れに売れているというから、すごいですね、その小説のジャンルが、たとえどのような種類のものであったにしても。
保坂さんの、この本は、そういった小賢しさがありません。
小説好きによる、小説好きのための、小説の読み方、というスタンスなのかな? だから、ギュッと集中して何かの解を、論文的に論じているものを想像すると、ちょっと違う、もっと温かいカンジがする、喫茶店で話し合っているような、そういう雰囲気のなかで、やんわりと小説論を論じているように思いました。
ですが、これは、書き手に近い感覚で読み解く小説論であり、純粋な読者は(という言い方もヘンですが)そんなことはおかまいなしに、話のすじが面白ければそれでいいというような、ヘタすると脚本のト書きに毛が生えたていどの文章であったほうが、むしろてっとりばやくて都合がいいというような、そういう流れになっている、という現実もまた、ほんとの売れスジしか置く気がない私のところの田舎の本屋での立ち読みから思い知らされるワケでして。しかしそうなると小説という表現方法にこだわる必要性が、いったいどこにあるのかとも思いますけれど。私は小説と脚本の両方を跨いでいるのでとくにそう思います。小説という表現方法でしか出来ないことを、もっと自由に思いめぐらしてゆくとすれば、とても短絡的に箇条書きめいたことは言えなくなってしまう、言説は明解に広がっていくどころか逆に混沌としていく、のだろうと、想像すると、保坂さんの言葉は、じつに誠実に響いてきます。皮膚感覚で理解していくべきことを、あえて言葉で伝えようとしている、とても大切なことを。まだ途中ですが、そういう感想でした。


余談:「あとがき」にも面白いことが。保坂さん、小6のときに、ノーベル文学賞受賞時の川端康成のところへ行き、川端先生じきじきに声をかけてもらったそうです!(す、すごい)



【ご紹介した本】
小説の自由
保坂 和志

4103982055

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