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ゾラ 『ムーレ神父のあやまち』

「なにか飲みたくない?」彼女がたずねた。
彼はのどが渇いていないしぐさをした。そしてアルビーヌの手をさも珍らしそうにみつめていた。あまりにもうっとりと見ているので、彼女は笑いながら片方の手を枕元まで差しのべた。すると彼は、頭を枕からずらしてその小さなみずみずしい手に頬をのせた。そしてにっこりと笑って言った。
「ああ、絹のようにやわらかい。まるで頭のなかに風を吹きこんでくれるみたいだ。…おねがいだから、このまま手を引っこめないでおくれ」
しばらく沈黙がつづいた。
二人は親愛の心をこめて見つめ合っていた。アルビーヌは病人の生気のない目をやさしく見つめ、セルジュ(※ムーレ神父)は彼女の小さなみずみずしい手から伝わってくる何か漠としたささやきに耳を傾けているかのようだった。
(略)
ある夕方、彼の容態が悪化したとき、アルビーヌは彼の頬の下にそっと手を差し入れた。それでも彼の苦しみは鎮まらず、彼女は自分の無力を悟って涙を流した。彼が冬の暗い無気力状態に陥ってからというもの、彼女はもはや自分の力だけでは悪夢の中でもがいている彼を救い出すことができないのを感じていた。彼女は春の協力を渇望した。
(略)
ところである朝、彼女はもはや効果のなくなった手枕をやめて、セルジュの頭をそっと持ち上げて枕に寝かせたときであるが、彼の唇に、先日のような微笑がかすかに浮かぶのを見たような気がした。
「よろい戸を開けておくれ」彼はよわよわしくつぶやいた。
彼女は、彼が熱でうわごとを言っているのだろうと思った。というのは、一時間ほど前に、彼女はベランダの窓からあいかわらず暗い空しか見なかったからである。
「しずかにおやすみになって」彼女はさみしく言った。「陽の光が射せば起こしてあげると約束したでしょう。…おやすみになって。太陽はまだ出ていないわ」
「いや、わたしには感じられる。太陽が出ている。よろい戸を開けておくれ」
(略)
「セルジュ! セルジュ! 太陽が出てよ!」
そしてカーテンをさっと開け、窓をいっぱいに開け放った。
彼は身を起し、ベッドの上でひざまずいた。息がつまり、失神しそうだった。彼は、心臓の激しい鼓動を止めようと、胸を両手でつよく押えた。
目の前に大空がひろがっていた。真青な、はてしない青一色。彼は苦しみが洗い去られる思いだった。揺りかごに身をゆだねるようにして、大空にみなぎる甘美を、清純を、青春を飲んでいた。前日、カーテンに影を落としていた木の枝は、窓よりも高く繁り、海原のような青空に濃い緑を投げかけている。その緑は、衰弱した彼にとっては、あまりに刺激のつよすぎる生命のほとばしりだった。地平に舞うツバメさえも、大空の汚点のように彼の心を痛めるのだった。彼はいわば生れたばかりなのだ。(156p~)


※『ムーレ神父のあやまち』ゾラ(藤原書店)より


ゾラの小説を買い集めたのに、ルーゴン=マッカール叢書の第1巻『ルーゴン家の誕生』から読まないところがミソです(笑)
ご紹介したのは第5巻目で、1875年の日付で刊行されたようですが、ツルゲーネフ繋がりで、それ以前にロシア先発で刊行済みだそうです。帯には「神秘的・幻想的な自然賛美の異色作」とあり、『ムーレ神父のあやまち』という題名にもそそられて、まずはこちらから読み始めた次第です。
さて、この題名をぱっと見て、想像できるお話のパターンがあると思います。そっちへ行くのかと思いつつ、読みすすめて行きましたら、「異色作」とはいえ、やはりゾラです、無駄なくきっちりと組まれた構造と、絵画のように描き込まれた鮮明な場面の連なり、そしてそこに落とし込む、独特なきりくちでのゾラらしさ。「あやまち」というのは何を指すものかと探りながら読んで行きました。神父が恋することか、その恋にのめり込んでいくことか、それともその恋を神の名において突き放すことか。その答えは中盤辺りから徐々に浮かび上がってきます。


その前に、この小説、どんな話なのかというと…、


セルジュ・ムーレは敬虔な司祭ですが、じつは狂信的なマリア信仰者。もっぱらキリストよりもマリアに自身を捧げています。
ある夜熱病で倒れた彼は、広大な謎の庭園パラドゥーに運ばれていき、そこで野性的な少女・アルビーヌの看護をうけて、しだいに息を吹きかえしてゆきます。(先に抜書きしたところ)ふたりは豊かな自然に育まれ、まるでアダムとイブのように愛にみちた日々をすごします。やがてふたりにも別離のときがきて、ふたりはいったんは離れるのですが、深く愛し合った記憶がふたたび彼らを結びつけようとします…。


この本のちょうど真中ぐらいでアルビーヌとセルジュは口づけを交わします。そしてそこを起点にして後半からふたりの楽園は崩壊し始める。
何が崩壊へと導いているのかといえば、もちろん周りの登場人物との関係や状況にもその一端は認められるけれど、あくまでも中心はセルジュとアルビーヌの関係性にあり、加えて、ここにゾラの独特な筆致が効いて、それ以上の影響力として、広大な謎の庭園パラドゥーが関係してきます。もう、むせかえるほどの、色・匂い・形・その歴史、ふんだんに盛りこまれてゆきます。ひょっとして気の短い読者はイライラしてしまうかも(笑)人物の動きや事件から、小説を理解していくのに慣れてしまっている読者にとっては、パラドゥーそのものが強く影響してゆくという表現の仕方にまずは躓いてしまいそうです。ちょっと抜き出してみますね。


果樹園の最長老はアンズの木々だった。一見、大聖堂修復の足場にも似た枯死状態の木立といった外観であるが、いまなお元気な古老さながらで、ごわごわした樹皮のいたる所から若々しい芽を勢いよく吹き出している。つづいて尊者格といえる古老は、全身白い苔でおおわれたプラムの木々である。それらは、一枚の葉も色あせることなく、いまも熱い陽光を浴びようと、枝葉を上に伸ばしつづけているのだった。それから、サクラの木々が何段にも枝を拡げて立ち並んでいるが、その姿は、十家族もの人たちがゆったりと住める高層の家々の連なる街並みといった壮観さである。次に、リンゴの木たちは、へっぴり腰で、どの枝もひん曲がり、木肌が緑青色に汚れたぶざまな姿をさらしている。一方、すべすべした肌のナシの木は、細長い枝をいっぱいつけた幹を空高く突っ立てている。あたかも港に碇泊する船の帆をたたんだマストが水平線上に屹立しているかのようだ。(224p~)


まだまだ続きますよ(笑)
ここがどれほどの楽園なのか、読者の肌にこすりつけて染みこませるかのようにして、ゾラは徹底的に描写していきます。
そして、この楽園を愛することが、すなわちアルビーヌを愛することに繋がっていく。逆に言えば、このむせかえるほどの原始的な自然というものを愛せなければ、つまり嫌悪するならば、彼はこの愛から去ってゆくしかないわけです。整えられた現在に戻ってゆくしかない。じつはこの話、神父という特殊な職業の男が、ただ単純に決まりを破ってこれがあやまちでした、という話ではないのですよね。今を生きる私たちにも同じことが言えるだろうと、勘ぐることも、できなくもない。愛なんて何なのか、とても断定口調では言えそうもありませんが、なんとなく、感じているところから引き寄せて言えば、まるでパラドゥーのように、この手のなかに大人しく収まってくれたためしがない、さまざまな条件のもとで自然発生的に勝手に成長したりひしゃげたりしている。こっちの思うようにはならない、それが原始的な自然の姿であって、愛し合うというのはその中で、たがいに強制したり略奪したりすることではないと。じゃあどうなんだと言えば、このふたり、セルジュとアルビーヌが睦み合っていたときのように、あたかも生まれたての赤子のような心で見つめ合うことだと、そういうふうにも読めてしまう。なぜなら、このふたりが男女として見つめ合うまでに、ゾラは相当な枚数を費やして段階を踏み、示しているからです。一足飛びに男女の愛には至らないわけですね。そういうヨコシマな関係を、ここに書きたいわけではない。パラドゥーの旺盛な生の勢いと、そのなかを歩きまわるこのふたりをジグザグに進んで行きます。セルジュが記憶を失ってパラドゥーに運ばれる、という意味も、ここで説明ができるでしょう。神父のままで愛し合ったら違う話になってしまう。つまり、『ムーレ神父のあやまち』と聞いて思い浮かぶたいていの小説が進んで行くであろう方向へと展開してしまう。それを避けるためにも記憶を失う必要があるわけですね。もちろん、パラドゥーを愛するため、アルビーヌを愛するために、赤子同然になる必要もあった。果たして、現代を生きる私たちに、このような赤子同然になれるチャンスがどれだけ残されているのかと、ここでまた私はうなだれてしまうわけですよ(笑)整えられた環境に慣れきってしまった私たちは、愛する人、愛すべき人を前にしてさえも、その手のなかに収めようと欲求している。そして窺い、争い、疑念に苛まれ、ついには傷ついて堕ちていくわけでしょう。なんにも難しいことはないのかもしれない。パラドゥーのような自然の姿をそのままに見つめているだけでいいのかもしれない。しかしそれが出来ずに右往左往している。セルジュはついにパラドゥーに背を向けて、生きた屍になって生き残る道を選びます。いえ、その道しか選べないわけです。ちょうど私たちが赤子同然になれないのと同じように。


もうひとつ、この小説には仕掛けがあります。
セルジュの妹、知恵おくれのデジレがそれです。
最後のほうで、この子はすごいこと(怖ろしいこと?)をやって見せますが、それがじつになんの気なしに、フツーに執り行われてしまいます。そしてこの小説は、彼女の無垢なセリフで幕を下ろすことになります。
ここにゾラの「生」に対しての楽観的な見方があるように思いました。カメラの位置で言えば、セルジュとアルビーヌにズームして、最後は空高く引いてゆく。いわば「生」を単純に示して終わっています。生まれ、生きて、増やし、そして死ぬ、というのがそれですね。


帯にはこんなことも書かれていました。


なお、寂しいプロヴァンスの荒野の描写は、セザンヌの画布そのままであり、またセルジュを監視する厳しい修道士の巻末における「耳切事件」などは、当作品を愛したゴッホに大きな影響を与えたことだろう。


とても良かったです。
次はどれを読もうかな~♪


※過去記事
『居酒屋』
『ナナ』



【ご紹介した本】
4894343371ムーレ神父のあやまち
エミール ゾラ ´Emile Zola 清水 正和

藤原書店 2003-10
価格 : ¥3,990

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