カタヨリ紙

終電前のブンガク雑談サイト 

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

小説を、読むこと。

18世紀フランスの文人にして博物学者ビュフォンは 《 Le style estl'homme meme. 》 と言った。明治の人はこれを「文は人なり」と訳した。簡潔な名句だが、より散文的に直訳すれば「文体は人間そのものである」ということになるだろう。「画家にとって色彩と同じく、作家にとって文体は技術ではなくヴィジョンの問題なのだ」というプルーストの言葉も有名である。
引用:三省堂書店内の記事

小説を読むとき、私は文章を、読み取っているのだろうか。
言葉の組み合わせ、イメージの擦り合わせ、ストーリーは? 人物は? そういうことを、読み取っているのだろうか…?
文の向こう側にあるものを受け取っているような気がしてならない。
それは思想だとか想いだとかそういった陳腐なものではなくて、うまく言えないが、その作者自体の宇宙を垣間見ているような気がしてならないのだ。

先に抜き出した文章、これは論でもなんでもなく、じっさいにさまざまな小説にあたっていくなかで、実感できる、ことです。
はやい話が、どう書こうが技術を施そうが見抜かれてしまう。ほんとの自分が根こそぎ炙り出されてしまう。それがつまりは文章の向こう側に拡がっている作者自体の宇宙であり、小説を読み進んでいく読者の私が、いちばん聴こえてくる見えてくる物語なのだと自覚しています。
ならば、いわゆるストーリー、Aという人物が、BCD…、という動きをする、このことは重要ではないのかといえば、作者自体の宇宙に比べれば、さほど重要ではないと思います(と言うと語弊があるかも)。ストーリーに重きを置くのは脚本のあり方のほうです。脚本は、作者自体の宇宙より、ストーリーのほうに、より多くの比重をかける。これはうちの師匠がハッキリと言っていました。小説と脚本は違うと。加えて、脚本は技術で書けるが、小説には、才能が要ると、これまたキッパリと申しておりました(苦笑)。

小説を書くのは、ほんとうに難しいことなのだろうと、想像する。書ける人しか、書けないものなのだろうと、思う。
師匠の言うところの才能、それはおそらく、作者自体の宇宙の質が問われているという意味であろうから、文章の書き方云々で論じたい方々が意外にも多いのだけれども、それはもう、言う必要がないくらいにそのとおりなのだけれども(だって小説は文章で表現するわけですから)はたして、そういうことなのだろうか…、と私などは、どうにも、半信半疑。
Info
ブログ拍手ありがとうございます。 このサイトは引越しました。文学の他に、韓国映画ドラマ、音楽、DIYなど、より雑多になって、のんびり続けています。
新サイト→ コドリバ
Search
Category
Links
AmazonSearch
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。