カタヨリ紙

終電前のブンガク雑談サイト 

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話がつうじない。

商売人の娘ですから、だれとでも仲良くやっていけるように躾けられている。わりと愛想もいいし、たいていの人々と、合わせていける。営業職なんて、私の天職じゃないかな。お客さんの呼吸とこちらの呼吸とがピッタリと合って、おたがいに気持ちよく売買できるだろう。

ところが、その社交性という場から、いったん降りてしまうと、たちまち誰とも呼吸が合わなくなってしまう。
言葉がつうじない、話がつうじない、おなじ日本の国で生まれ、日本語を口にしている筈なのに、「私」と「あなた」のあいだには、乗り越えられそうにもない強硬な境界線が引かれ、「私」という個と「あなた」という個が孤独に閉じられていくような観がある。その境界線を境にして、こちら側に「私」が立ち、あちら側に「あなた」が立ち、言葉がつうじないものだから、おたがいに身ぶり手ぶりもまじえ、なんとかして意志の疎通を図ろうとはするが、「私」がより私になるほどに、「あなた」がよりあなたに近づくほど、「私」と「あなた」は分かり合えないようだ。

それはたぶん、「私」が「あなた」の言語を理解していないからだし、「あなた」もまた「私」の言語を理解していないからだ。
ね? 分かるでしょう、という、社交性の場、暗黙のルールに則った場では、そんなに問題はないと思う。共有し合う言語、すなわち同じ文化のなかで、発言し合っているわけだから。
その文化、その大きな流れ、そこに沢山の支流から脈々と流れ入る「私」や「あなた」の個の流れ。違いを認め合う、理解し合うなどと、どうしてカンタンに言えたものか。「私」が私になるほどに、「あなた」があなたに近づいてゆくほど、「私」と「あなた」は分断されて、たがいに孤独に閉じられてゆく。多様化、個の時代、その現実は、孤独ではないのか。せめて独りを癒すため、同ジャンルに似た言語の仲間どうし、にわかに高揚するだけだ。境界線を前にして、それでも分かり合いたい願いだけが身ぶり手ぶりを止めない。私もまた滑稽だが、それを止める気にはどうしてもなれない。話がつうじなくて、分断されていることを意識しつつも。社交性という場、だけでは、さびしいような、気がするから。

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