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第137回芥川賞受賞作 『アサッテの人』 諏訪哲史

アサッテの人私に残された選択は、破綻を覚悟で苦肉策を押し通すか、悪足掻きは止して潔く筆を折るかの二つに一つということになる。だが正直なところ、ここに及んでなお前者を主張するほどの頑強さはもはや私にはない。といって、このままアサッテの話を断念し、おとなしく稿を眠らせておくのも業腹だ。(略)
…あらためて手元を見渡してみたものの、今までの試行錯誤が物語るように、これらバラバラな素材は、小説という単一の視点から編み直されることを、頑として受け入れない。無理にそれを強いるなら、全体は矛盾だらけの出鱈目な代物に堕するだろう。
いま、私はこれらの難題にほとほと倦み疲れた。そして思いあぐねた末、一度すべてを放擲(ほうてき)し、はなから並べなおすことに決めた。つまり、草稿は草稿、日記は日記として、小説以前の敲(たた)き台のような体裁のまま読者の前に投げ出すというやり方である。普通なら、こうした狼藉は作品として許されるものではない。いや、そんなことより、この場合もっとも厄介な点は、草稿と日記とをコラージュすることでなる小説『アサッテの人』とは、それ自体、果たして完成品なのか、草稿なのか、という問題なのである。もとより、いまの私に申し開きの術などない。順を追って並べ直し、そこに出来上がったものが自ずから完成品である。(11頁~)


よくぞこの小説に『群像』は新人文学賞を与え、それどころか芥川賞まで受賞させてくれたものだと、私は読んでみて驚いた。まだまだ文学も捨てたもンじゃないと思った。作者・諏訪哲史さんとはアカの他人で、もちろん何の義理も借りもないけれど、選考してくれた人々に感謝したい気持ちにさえなった。この小説は、芥川賞どころか、もっとずっと下の第一選考で落とされる可能性が高いと思う。それを諏訪さんはよく分かっていて、最初の段階でこういう文章が出てくる。


「作為をことさら回避せんとして自ら作為に囚われる態(てい)の、これぞ典型的な「前衛」の轍(わだち)ではないか(10頁)」と。


『群像』新人文学賞の下読みの人たちが(その後は読者が)、「あ、前衛ね」で片付けてしまうだろうことを、あらかじめ知っていると言わんばかりの書きようだが、それでもなお、このような方法でしか表現しきれない“アサッテの人”を、これから「私」は、のたうちまわって書いていきますと、まるでそう言っているようにさえ見えてしまうのだ。

↑に抜き出した部分は、こういう書き方に至った経緯についての説明だが、これも早い段階で出てくる。そうとう気を遣って書かれている。
当然、この説明も小説内での出来事で、叔父さんやその奥さんやチューリップ男など登場人物が複数人出てくるが、私はこの小説を、私小説と似た位置づけで読んだから、その説明も「私」の告白みたいなものとして理解した。最初から最後まで「私」のことが書かれているのだと思った。あっちの壁に光をあて、こっちの壁にも光をあて、そこに映し出される影と対話しながら、「私」は「私」と対話しているのだと思った。こういう人間がいる、その人間を表現しようとしている。これは文学でしょう、人間を描くのが文学でしょう。すごく基本的なことを勢いづいて書いてしまい自分でも恥ずかしくなるが(笑)
しかしこの小説は、その方法にばかり目が行ってしまい、方法を振りまわすだけの小説として読まれてしまうのではないのかと、私ごときが危ぶむ。あるいは哲学的な物言いに鼻白む読者の顔が見える。小説とはどういうものなのか、読む前の読者の理解の仕方によって、ずいぶんと印象が違ってくるのではないだろうか。むかし、むかし、あるところに……、だけが小説ではないのだが。それこそ町のカルチャーセンターで教えてくれるような“小説の書き方”とは、およそかけ離れた、まじりっけナシの小説だと、それが言い過ぎならば、少なくともそちらへ向かおうとしている正統派の小説ではないのかと、まるで諏訪さんのまわし者のごとく(笑)妙に力説したい気持ちなのだ。アマゾンの紹介文↓


「ポンパ!」 突如失踪してしまった叔父が発する奇声!
アパートに残された、叔父の荷物を引き取りに行った主人公は、そこで叔父の残した日記を見つける。
現代において小説を書く試みとは何なのか? その創作の根源にある問いに、自身の言葉を武器に格闘し、練り上げられていく言葉の運動。精緻にはり巡らされた構造と、小説としての言葉の手触りを同居させた、著者の大胆な試み。
読書家としても知られる各氏をうならせた、驚異の才能のデビュー作!


本屋に出てまだ間もないし、ネタバレも避けたいので、内容については詳しく書きたくないが、もう少しだけ書かせてもらうと……。

この小説のおもしろいところ。
読む行為そのものが、おもしろいのだと思う。
言葉の感覚もそうだけど、読者といっしょに進んでいくようなLive感があって、それはこの小説の語り手の「私」が、言葉のアヤでもなんでもなく、ほんとうに「のたうちまわって」語っている(書いている)から、読者もいっしょになって体験しつつ読みすすめて行けるのだと思う。そういう生っぽさが効果的に出ている。これは小説らしく書かれた小説には出せない生っぽさ、だと思う。
それから途中で安部公房を思い出したけど、コーボーさんより湿度が高く、濁りを感じる、やや泥臭い。もっと前の時代の作家の方が近いかもしれない。けれど、私はむしろ、私の好きなフランス文学の薫りを嗅いだ。この湿度といい抜けきらないところといい、ようするに、この小説は私好みだったのだ(すみません 笑)。
内容については、ちょっと泣けるいい話だった。
生きている人の身近な体温を感じた。
このような方法でしか表現できなかった人としての姿と、突然に「ポンパ!」と奇声を発する人の姿が重なり、せつなくて良かったです。

諏訪さんからのメッセージが、アマゾンに↓。

不遜(ふそん)な代物(しろもの)が、おそれおおい賞をいただいたうえに、大部数で出版されることになってしまいました。これはややもすれば、僕と出版界とが共謀した、大掛かりな、一種のテロリズムととらえられても致し方ないくらいの、反社会的行為であるのかもしれません。できることなら、冗談をご理解いただける、懐(ふところ)の深いエピキュリアンのお手元へのみ、この本が届きますことを。…

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