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『ゴリオ爺さん』 バルザック

ゴリオ爺さんそうですわ、ラスティニャックさん、世間というものをありのままに扱わなければいけません。(略)
あなたは冷静な打算を働かせれば働かせるほど、出世できるのです。容赦なく打撃をあたえなさい。そうすればあなたはひとに恐れられるでしょう。宿駅ごとに乗りつぶしては捨てていく駅馬のように、男も女も扱うことです。そうすればやがてあなたは欲する絶頂に達することができましょう。おわかりでしょうけれど、あなたに関心をいだく女性がいなければ、社交界ではあなたはものの数にもはいりませんのよ。あなたには、若くてお金があって優雅な女性が必要です。しかし、たとえあなたに真心からの気持ちがあったとしても、それは宝物のように隠しておかなければいけません。ほんのちょっとそれに気づかれただけで、あなたの身は破滅です。あなたはもう死刑執行人ではなく、犠牲者となってしまうのですから。もしあなたが愛情をおもちになったら、秘密をよく守ることです。相手の人柄をとくと見きわめないうちは、決して心を開いてはいけません。現実にはまだ存在しないあなたの恋をあらかじめ守るためには、世間に気を許さぬ修行をなさることですわ。(世界文学全集 21 バルザック/訳・高山鉄男 72頁

ポーセアン夫人がラスティニャックに、パリ社交界の裏側を教えさとす部分だ。金や銀の装飾品にかこまれ満ち足りた生活に首まで浸かる、一見ふやけた幸運な人々…、だがそれは水面下で激しくぶつかり合う、終わりなき冷静な打算によって築かれた、休む間もないひとときの勝利でしかなかった。自覚なき者は、操作する者から操作される者へと転落するだろう。まずは後ろ盾となる恋人を探しなさい。冷静な打算を容赦なく! もしもあなたが勝ち組となりたければ!

とはいえラスティニャックは、立身出世のとばくちに立つ前に、青年らしく思い悩むのである。一足飛びには進んで行けない。さまざまなものを目にした後に、そこから納得づくで、一歩踏み出すのだ。『ゴリオ爺さん』は、そこまでを描いた小説である。

彼が見たものは何か。ゴリオ爺さんの悲劇。なんといっても表題にある、お爺さんとその娘たちが繰り広げる悲劇である。お爺さんの痛切な独白が、後半、細く長く、吐き出されていく。まさに肉体と魂が別れてゆく狭間に発せられた≪声≫を、ラスティニャックは傍で洩らさず聞いてしまうのである。それから、すえた臭いをただよわせる下宿屋ヴォケェ館の住人たち。揺さぶる者、抜け目なくわけまえにありつこうと手揉みする者、思慮に欠けた愚かな者や、悲しみに慣れ親しんでしまった者など、誰も彼もが一筋縄ではいかないクセ者ばかり。パリ社交界の表と裏だけではない。なんと世の中は、むせるほどの、人、人、人、なのか。ラスティニャックは教材としてそれらを学び、燈火がまたたきはじめたパリの町をながめながら、「さあ、こんどはおれとお前の勝負だぞ」と吐き捨て、後ろ盾となりそうな女のもとへと晩餐をとりに出掛けるのである。

「奢侈と虚栄、情欲とエゴイズムが錯綜するパリ社交界に暮す愛娘二人に全財産を注ぎ込んで、貧乏下宿の屋根裏部屋で窮死するゴリオ爺さん。その孤独な死を看取ったラスティニャックは、出世欲に駆られて、社交界に足を踏み入れたばかりの青年だった。破滅に向う激情を克明に追った本書は、作家の野心とエネルギーが頂点に達した時期に成り、小説群“人間喜劇”の要となる作品である。(アマゾンの紹介文より)」

最愛の妻に先立たれてしまったゴリオ爺さんは、妻へと向けるはずの愛を、代わりに注ぎ入れる容れもの(対象)を必要としている。それがすべて娘ふたりに振り分けられてしまった場合、子どもの頃から過保護に育ててきたとはいえ、単なる“父性愛”を通り越してしまい、たぶんに近親相姦的な関係となる。真綿の愛で絞め殺す勢いだが、皮肉にも、絞め殺されたのはゴリオ爺さんの方だった。娘たちは非情で強欲なふるまいをして見せる。そこには、父親への拒絶、嫌悪感が仄見えている。どんな難題を与えても受け入れてしまう父親を呪うかのようにして、娘ふたりは父親からお金を吸い上げてしまい、死に際に顔を見せることもなく、あの世へと送ってしまうのだから…。ゴリオ爺さんの窮死は、こういった事情も抱えているだろう。

パリ社交界に無いものは無いと言っていいだろう。
そのパイプラインはどこへでも伸びて行き、なんでも吸い上げ、なんでも吐き出してしまう。金銭欲と競争原理によってカタがついてしまう“近代”の単純さと、おそろしく複雑な人間喜劇の二重奏である。ポーセアン夫人の教えは正しいと言える。そしてその劇は、いまも緞帳を下ろすことなく続いていると思われる。

バルザック(1799~1850)と言えば、この『人間喜劇』だ。
ダンテが『神曲』で神の劇(コメディ)を書いたのに対し、バルザックは人間の劇を書こうとしたという説がある(もともとコメディの意は喜劇ではなく演劇だったそうです)。なにか自分の作品を一括するための名前を探していたようで、『社会研究』という名も考えたようだが、1842年、劇作、雑文、青年時代の習作を除いたすべての作品の総題としてこの名を与え、刊行していく。

世界文学全集 22 バルザック 解説から引用↓

1848年、『人間喜劇』初版は、全16巻、補巻一の刊行を終えました。このとき作者はまだ50歳にもなっていませんでしたが、長年の過労によって、病み、疲弊し、もうほとんど創作活動を行えなくなっていました。今日に残された『人間喜劇』は、91の作品を含み、(略)『風俗研究』『哲学研究』『分析研究』の3部からなっています。さらに、『風俗研究』は、6つの情景によって構成されています。登場人物の総数はほぼ2000人で、背景となっている時代についていえば、なかには『追放者』(1831年)のように中世を扱ったものもありますが、大部分の作品は、王政復古時代(1815~30)及びルイ=フィリップ王政時代(1830~48)を背景としております。『人間喜劇』は、19世紀市民社会に関する雄大な壁画であり、小説の形をとった大年代記ともいうべきものでしょう。(386頁)

もう1つ。

「歴史」と「生活の細部」と「情念の哲学」、これら『人間喜劇』の根底をなすところのものに、さらに「人物再登場」の技法が加わると、そこに完全な意味でのバルザック的世界が誕生することになります。「人物再登場」の技法とは、要するに同一人物をくり返し異なった作品に登場させることですが、このような「再出人物」の数は、『人間喜劇』全体では573人の多さに達しています。(略)
このような手法は、『人間喜劇』全体の作風に、はかり知れないほどの影響を及ぼしています。読者は、既知の人物にたびたび出会う結果、その人物があたかも現実の人物であるかのような印象を受けます。また再出人物は、他の作品に描かれた過去を背負っています。つまり人物の生活は、時間の奥行きを獲得しているわけです。(略)
バルザックが、「人物再登場」の手法を思いついたのは、1833年、『ウージェニー・グランデ』執筆中のことだといわれますが、この手法が本格的に適用されはじめたのは、『ゴリオ爺さん』(1835年刊)からです。はじめは法科の学生で、のちに政治家となるラスティニャック、医師のビアンション、大悪人のヴォートランなど、『人間喜劇』のおなじみの人物たちが、『ゴリオ爺さん』ではじめて描かれました。(383頁~)

「まだ生きているんだね」と、ビアンションが言った。
「生きていてなんになるでしょうかね」と、シルヴィーが言った。
「苦しむのにしか役立たない」と、ラスティニャックが答えた。
(同/251頁)

死を待つばかりのゴリオ爺さんの傍らに立ち、彼らはそう言っていたのである。これと、そっくりそのままの会話を、私は今まで、なんど聞いてきたことだろう…? 口あたりのよい言葉など、なんの役にも立たない。
『人間喜劇』を展開させていったバルザックの野心は、けっきょくそこへと切り込んで行くことになる。言ってる人も言われている人も、ひとり残らず手術台へと運ばれてしまい、そして皆、腹を裂かれて剥き出しになるのだ。
作中、ヴォートランはこう言っている。
「わしが世間を非難しているとでもきみは思うかね。とんでもない。世間は昔からこうだったのだ(99頁)」

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ゴリオ爺さん (上) (岩波文庫)バルザック/訳・高山 鉄男
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