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母の崩壊 ~江藤淳

『成熟と喪失 ~“母”の崩壊』/江藤淳(講談社文芸文庫)より


<(…)信太郎は子供のころから母の歌で悩まされた歌詞の1つをおぼえてゐる。「をさなくして罪をしらず、むづかりては手にゆられし、むかし忘れしか。春は軒の雨、秋は庭の露、母は泪かわくまなく祈るとしらずや」といふのがそれだ。いはばそれは彼女のテーマ・ソングだった。(…)それは無意識なだけに、母親の情緒の圧しつけがましさのおかげでしばしば彼は、母親にとつていつたい自分が何であるのか、母とは何であり息子とは何であるのか、問ひかへしたい衝動を子供心におぼえたものだ。>(安岡章太郎『海辺の光景』)

私はこういう「圧しつけがましい」情緒が、どれほどの範囲の母と息子を拘束しているものなのかよく知らない。しかし一般に日本の母親と息子の関係には、これによく似た濃い情緒が隠されているように思われてならない。それはほとんど肉感的なほど密接な関係で、たとえばエリック・エリクソンが『幼少期と社会』で語っている米国の母子関係の対極にあるものである。エリクソンは米国の青年の大部分が母親に拒否されたという心の傷を負っているという。これはいうまでもなく、いつも母の「テーマ・ソング」を聴かされ、その甘酸っぱい歌声が肌に粘りついて来るのを感じていた『海辺の光景』の主人公には縁のない傷跡である。
(…)日本の母と子の密着ぶりと米国の母子の疎隔ぶりのあいだには、ある本質的な文化の相違がうかがわれるはずだ(…)。この特質が文学に影響をあたえないはずはない。そしてもし今日、日本の作家が「成熟」を迫られ、しかも「成熟」の手がかりをつかめずにいるのが実状だとすれば、その原因はおそらくここまで溯らなければきわめられないはずである。
エリクソンによれば、米国の母親が息子を拒むのは、やがて息子が遠いフロンティアで誰にも頼れない生活を送らなければならないことを知っているからだという。そういう息子のもっとも純粋なイメイジは、やがて目的地に着いたら屠殺される運命の仔牛の群を率いて大草原を行くカウボーイの孤独な姿に反映している。


ゆっくり行け、母なし仔牛よ
せわしなく歩きまわるなよ
うろうろするのはやめてくれ
草なら足元にどっさりある
だからゆっくりやってくれ
それにお前の旅路は
永遠に続くわけではないぞ
ゆっくり行け、母なし仔牛よ
ゆっくり行け


このカウボーイの子守唄と、たとえば安岡章太郎氏の小説の母親が歌う<をさなくて罪をしらず(…)>という、「圧しつけがましい」歌との異質性は一目瞭然である。
「成熟」する間もなく母親に拒まれ、心に傷を負って放浪の旅に出たカウボーイは、誰にも頼らずに自分の死を見つめて「ゆっくり」大草原の彼方に消えて行く。彼は孤独であり、母親と絶たれているように他人からも絶たれている。しかし彼は自分の率いる「母なし仔牛」の群に対しては1個の「母」であり、その故に子守唄をうたってきかせてやったりするのである。一方『海辺の光景』の母親のうたう歌にこめられているのは、成長して自分を離れて行く息子に対する恨み―― あるいは「成熟」そのものに対する呪詛である。母親は息子が自分とはちがった存在になって行くことに耐えられず、彼が「をさなくて罪をしら」なかった頃、つまり母親の延長にすぎなかった頃の幸福をなつかしむ。この息子が「他人」になることに脅える感情は、あるいは母と子のあいだを超えて、一般にわれわれの現実認識の型を支配しているかも知れない。つまりわれわれは、成長した息子のように見馴れない現実が出現すると、まずその存在を否定しようとし、次いで出現した新しい現実を恨む。そして新事態を認めるよりは「むかし忘れしか……泪かわくまなく祈るとしらずや」と愚痴っぽくうたうことを好むのである。
これはおそらくわれわれにとって現実認識の手がかりになるものが、血縁以外にないからにちがいない。いいかえればわれわれは自分の延長であるものの存在しか認めたがらず、もし自分に似ていると思っていたものが「他人」であることを思い知らされると、裏切られたと感じるのである。このことは、逆にいえば日本人の生活全般に及ぼされている母親の影響の強さを物語るものであろう。これはもちろん、「家」のなかでの母親の位置に由来しているという点で、農民的・定住者的な感情というべきものである。息子は「家」のなかで、先祖伝来の田畑を守って生きなければならない。彼は放浪するカウボーイのように孤独であってはならず、母に対するように密接に血縁とつながり、母に対するような濃い情緒で大地に結びついていなければならない。日本の母と息子の粘着性の高い関係は、おそらくこういう文化的な背景から生まれたはずである。少なくとも『海辺の光景』の母子の関係の核にあるのはそういう感情である。


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20代の頃に読みました。
抜粋した箇所は、この本を開いていちばん最初に出てきます。
モラトリアムだった私は本屋で立ち読みし、即座に購入しました。
この後、『海辺の光景』に背をむけた男、小島信夫/『抱擁家族』が出てきます。「恥ずかしい父」と「いらだつ母」、その子どもたちは「ふがいない息子」と「不機嫌な娘」。この子どもたちが結婚して『抱擁家族』の主要メンバーになります。当時は気づかなかった、あれやこれやが、いま読み直してみると、じつに思いあたるフシが(笑)著書目録(単行本)によれば『成熟と喪失~ “母”の崩壊』は、昭和42年6月とあります。なんと私はまだ生まれていないじゃないか。なのに現在の様子とそう違わない。というより、ひょっとして、江藤淳が示した状態から、ほとんど変わらずに来てしまっているのかもしれない。このまま行くのか、どこかで変化するのか、日本人は、どうなって行くのだろうかと、「不機嫌な娘」は、ぼんやりと考えていました。


Link : 江藤淳についての面白いサイト様


【ご紹介した本】
成熟と喪失―“母”の崩壊
江藤 淳

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【海辺の光景、他】
海辺の光景
安岡 章太郎

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【驚くほどに現代的】
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